二元論で片付けられる善悪ほど簡単なものはないし、勧善懲悪な映画ほど楽な物はない。けど、現実社会はそうもいかない。立場や環境によって、物事の善悪は変わるからだ。そんな映画だった。
初めの印象としては、単なる反権力に翻弄する母親の苦労話で、多くの米国人がトランプ大統領を憎んでいるように、警官による黒人への暴力も痛烈に批判するなど、権力が緩いでいる米国の今を象徴しているような映画なんだなと思いきや、そういう憎しみや怒りの連鎖の無意味さを投げかける。憎悪から希望への描き方が秀逸で、この映画の本質はそこにあるからこそ面白い。
それは音楽にも象徴されていた。主人公の母親が登場するシーンで使用された音楽は、マイナー調の陰気臭いカントリー曲で、マカロニ・ウエスタンのような西部劇に使われそうな楽曲。ジョン・ウエインやイーストウッドが孤高に決闘に向かう姿が思い浮かぶ。正しく、この母親は、そんな勇ましい姿なのである。強姦された娘の捜査が進まない警察への抗議。確固たる信念が音楽と共に感じられる。
ただ、この映画はそんな復讐なんて安易な物語では済まない。話が進むにつれて、この母親に正義を感じなくなってくるのだ。実は、とんでもない凶暴ババア。復讐に燃える娘想いであることには変わらないが(フランシス・マクドーマンドの、時折見せる喪失感に苛まされる悲しみの演技が上手すぎる)、汚い言葉で他者を傷つけるばかりで、時に行き過ぎた行動は決して正義とは言い切れないものになってくる。
ただ、この母親の言動も暴力的ではあるが、どこか滑稽で笑える。「そんな無茶なことまでするかよ!」って(笑) これは、この監督が北野映画から学んだことらしい。『アウトレイジ』は完全なコメディだと言ったことがあったけど、まさしくそのニュアンス。
では、初めは捜査を行わない怠惰とされてきた警察側はどうか? 署長の音楽は、賛美歌的な瑞々しい爽やかなフォーク曲だし、部下の警察官の音楽はABBAの「チキチータ」である。
母親側から見れば、事件に真摯に向いていない堕落した権力に思えるも、実は署長も部下も捜査に無関心なわけではなく、それなりにやっているのだ。加えて、署長は信心深く、家族思いで責任感も強い。街中からの信頼も厚い。看板の広告費用も出すにまで至ったりもした。
暴力的な部下も、彼なりの強引な方法ではあるが、容疑者とみられる男からDNAを命からがら取得する。絶対に悪い奴らと思っていた彼らに正義が感じられるようになる。視点によって、立場によって、善悪が変わるのである。
このような、ヒトの裏と表、多面性を描いている。善悪がコロコロと変わる展開は秀逸すぎる!
これって劇中舞台のミズーリ―州にも起因していると思う。喉かな街だけど、実は非武装な黒人への白人警官による暴力が始まったのもミズーリ―だという。非常に差別的な街らしい。要は、偏見にまみれているわけだ。だからこそ、厄介。善悪が表裏一体になってる街だというから、まさに本作の舞台としては最適だ。
怒りの連鎖と攻撃からは何も生まれない。冷静さを失っては物事は解決しない。これは常に客観視しろだとか、冷静であるべきとか、中立でいろと言うことでもないと思う。どこぞの詩人ではないが人間だもの。意見があってはいいけど、頑なな先の憎悪は問題解決にはならない。それを象徴するシーンとして、オレンジジュースのシーンがある。ネタバレになるので詳細は言わないが、あれこそ、この映画の本質なのかなと思った。
分断された今の米国を表しており、格言めいたものさえ感じる。そして、今のアメリカ全土に渦巻いている「#metoo」運動のように、女性への強姦に対する反対姿勢を表明した、強烈な社会派な映画であることは間違いなく、その時代性を鑑みても、オスカー受賞作品として相応しいと思っているのだが。さて、どうなるか?
(文・ROCKinNET.com編集部)
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