囲碁の名人が人工知能に負けたというニュースを見て、人類はこのまま何処に行こうとしているのか?開発は正義か?なんてことを思った。
囲碁の名人戦ともなれば、相手の表情や空気感を察して、先の手を読むくらいの心理戦だそうで、それが実は口三味線だったりするのも、人間だからこそ出来ることだし、醍醐味だって言うのを聞いたことがある。
だから何だって言われると、結局は、人工知能も、囲碁でも将棋でも、この先、様々なスポーツ、医療、生活のあらゆる部分で活躍する時代がくると予想されるけど、それらに人間的なものが一切排除されていいのか? 人間的なものというのは感受性や、データ以外の部分なわけで、理屈ではない感情論が疎外されることに、少々、面白みがなくなるというか、ある種の危険性も伴うなと思ったりもしたわけだが、そんな世界が、この『攻殻機動隊』なのだろうと思ったのだ。
何をそこまで危惧しているかといわれれば、2001年にスピルバーグの『A.I.』という映画が公開され話題になった。しかし、あの当時は、今ほどパソコンも普及してなったし、携帯電話の所持率も今ほどでもなかった。人工知能なんて夢物語でしかなかったから、映画としての題材としても斬新で、物珍しく、ファンタジーとして適切だった。それから、16年である。たった16年で、ここまで進歩した。人間の知能を上回ってしまったのだ。そのペースの速さと、身近さに戸惑いに近い危機感を覚える私のような人間がいてもいいと思わないか。
アニメを全く見ないので、大変申し訳ないが原作を全く知らない。だから、世界観の構築や、ストーリーの再現性、緻密さについて、とやかく言える立場に無い。そんな無垢な素人目線で言わせて頂くならば、漫画原作の映画としての再現性は抜群ではないのか? チラッとしか見てないが、近未来の光景には、映像革新が個人的には起こったと思えるほどのハイクオリティである。破滅をも感じさせる発展途上の光景は、多彩で美しかった。
人工知能系映画には避けて通れないテーマ性であるのは明白だが、今年続編が決まっている大名作『ブレードランナー』にも通じる、人工知能自身の意思、AIの人間性の取り扱い方。それらが、本作では、特に切なく描かれている。発達しすぎた科学が行き着く先は悲劇だと、映画は語る。
何故か、ビートたけしが日本語のままだったのが、残念極まりなかったが、もはやキアヌ・リーブス主演の『JM』の時のように英語台詞を覚えるのを疎ましく思ったか? たけしの日本語に、ハリウッド俳優達が英語で返すという歪な会話劇も説得性に欠け、監督は(たけしを尊敬、敬愛していようとも)英語を話させるべきだったと思う。
最新情報をお届けします
Twitter でROCKinNET.comをフォローしよう!
Follow @ROCKinNETcom
この記事へのコメントはありません。