2000年に始まった『X-MEN』を観た時に、誰がこんな悲劇的で壮絶なエンディングを想像できただろうか。今までのVFX依存のド派手な映画は何だったのだろう? と思えるような方向転換。近未来の世界は逆に荒廃し、まるで西部劇の時代に逆戻りしたかのよう。往年の名作『シェーン』等の西部劇が随所に織り込まれていることからも西部劇愛が伝わってくる。内容以上に見た目重視のCG映画が、こうもテイストを変えてくると思うと、一本取られた感が凄まじい。
このような、従来のイメージを180度ガラリと変えるクリエイティブというのは、本当に優れていると個人的には思っている。
携帯会社のCMで、それまでのギャグ路線から桐谷健太が真剣に歌ってヒットした「海のうた」然り、まるでオープンキャンパスのような爽やかなポスターで、従来の下品なイメージの脱却をし、アダルト製品を身近な存在にしたTENGA然り。レガッタの早慶戦のサイトも、鍛え上げられた大学生の肉体を露出することで、宣伝、話題になったり(後に、大学から裸NGを食らうが)。ホラー映画のようなタイトルの純愛小説『キミの膵臓を食べたい』も、今流行中の「うんこドリル」も、イメージ脱却・ギャップの成功例である。
この『ローガン』も、発想的には同じだ。「まさか、あのCG満載な子供映画が西部劇に?」と、興味が湧き、久々に見入ってしまった。17年間もの間やっている長寿シリーズである。飽和という大きな課題が圧し掛かる。その脱却に見事に成功している。流石としか言いようがない。まさしく有終の美である。
この映画が何よりも革新的だったのは、ミュータントの加齢を描いたことだった。
日本ではアニメキャラの加齢はタブー視されている。のび太も、しんちゃんも、ちびまる子も、年を取らない。それに対して、本作のウルヴァリンは、白髪交じりで、どこか弱々しく、従来通りの力強く華麗なヒーロー像として描かれなかった。それどころか、今まで巨大な力として描かれてきたプロフェッサーXは介護を要する老人でしかない。それをウルヴァリンが介護している画は、実にシュールだった。これらから、このエピソードが、X-MEN史上、もっと言えばマーベル史上最も“異質”且つ、重苦しく、哀愁に満ち溢れ、終焉を迎えるのにどれほど適していたものであるか物語っている。
ウルヴァリンは常に闘ってきた。彼の人生を考えると破滅の繰り返しだった。その終焉に彼は何を思うか。ヒーローの終焉を見送る体験は滅多に出来ない。従来のアメリカン・ヒーローは不死身で無敵であるからだ。その方程式から逸脱した本作は、とことんウルヴァリンに贖罪を課せる。彼の若い時に姿が重なる少女の凶暴さを食い止めようと懸命になる。暴力しかなかったミュータントの人生の行末にしては実に皮肉だ。
敵から逃げるために、ウルヴァリンと少女、プロフェッサーXが古びたトラックで走っている様なんか、もはや『X-MEN』ではない。
まるで、俳優ヒュー・ジャックマンによる“自分の出世作”でもある同シリーズへの感謝や敬意と、17年間共にしたウルヴァリンに対する並大抵ならぬ愛情が、迫真の演技を以て表されているような気がして、とにかく圧倒された。これまでは全て漫画と片付けてきた同シリーズに、生身の人間的なエッセンスが加わることで、観ているのも辛い。その空気感は重々しく、果たしてあなたに受け止めきれるか? ただ、言えることは、マーベル映画に優れた名作が新たに生まれたということだろう。
最新情報をお届けします
Twitter でROCKinNET.comをフォローしよう!
Follow @ROCKinNETcom
この記事へのコメントはありません。